昭25、ビジネスフォーム印刷へ
昭和二十五年十一月二十日。
昔ながらの街の印刷屋だった山口屋紙店は東洋ビジネス印刷という株式会社にその姿を変えた。
変わったのは、外見だけではない。営業内容も一新された。イギリスのウイギンス・コーポレーションから輸入したノーカーボン紙の印刷販売を中心にして、まったく新しい市場の開拓に志願したのである。
実務は社長の忠造がやったが、経営戦略、戦術をリードしたのは、若かりし頃の専務の桂治郎であった。社名にビジネスという横文字を持ち込んだのも、ビジネス・フォームという新しい分野を目指したのも、従前の街の印刷屋からの脱皮の夢に燃えていた桂治郎の若々しい感覚の所産であった。
長い間、父親の商売を見てきたからというのではない。そんなものをはるかに越えて、若い桂治郎の心の中には、新しい感覚が根づいていたのである。
「前垂れ、もみ手」を拒否する感覚は、たくまずして新しい時代の企業経営のあるべき姿と同質であった。平たくいえば「売るべきノーハウのない経営は、真の企業経営ではない」という認識だ。
この認識を桂治郎なりに表現したのが「一歩先んずる」という経営理念だったといえよう。桂治郎の若い情熱と男のロマンを感じるのは、私ひとりではあるまい。
「一歩先んずる」精神は、いち早くコンピュータ時代の到来を予知させ、東洋ビジネスをしてコンピュータ用フォームおよび関連分野の優良印刷企業の座へと導いた。それはひとまずおくとして、ここでは、少し桂治郎のこの感覚と認識のルーツについて考えてみたいと思う。
前にも書いたとおり、昭和六年生まれの桂治郎の年輪は、昭和の歴史とほぼ同じである。多感な少年時代は、ほとんど〝戦時下″であり、その価値基準は、神国日本、天皇の赤子をおいて外にない。
だが、桂治郎の心の奥には、その価値観とは別な〝何か″がひそんでいた。
〝何か″について桂治郎は、次のように語っている。
「小学生のとき、国語読本で『欧州航路』という本を読んでたいへん感動したんですね。それ以来、私の心の中には、強い海外への憧れが根ざしていたようです」
この原体験は、その後、英語への強い関心と執着となって具現されてくる。
豊多摩中学一年のときである。英語教師内山郁男と出会ったことが、桂治郎を英語の世界へ引きずり込んでいく。
英語の持つ雰囲気とリズムが、少年の心にはなんとも新鮮で魅力的だった。それと同時に、内山の背のスラリとしたスマートさとエキゾチックな容貌が桂治郎の心を躍らせた。
他愛がないといえばそれまでである。だが、そうしたなんでもないことが、しばしば人生の分かれ道になることも少なくない。人生というといささか大げさになるが、事実、桂治郎は、内山との出会いを契機にして、英語を思想形成の一つの大きな下敷きにしていくのである。
敵性語として英語が排斥された時代、それが桂治郎の最も好きな学科になった。好きこそものの上手なれで、成績はいつもトップであった。とうぜん内山にも可愛がられ、彼の家にも親しく出入りするようになる。英語教師の生活にふれることで、より英語に魅かれていく。
「敵性語なんていって禁止しているが、占領地はみんな英語を使っているじゃないか」
反発が、画一的価値観の世界に微妙なすき間をつくる。自由な発想の領域がおのずと生まれてきて「日本人の祖先はツングース族だ」という友人と平気でつきあうようになる。
(敬称略)
<文・道田 国雄>
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