そして、新社屋建設へ
「決断がなければ前進もない」
この信念のもとに、東洋ビジネスは荒波を乗り越え、成長を続けてきた。
常に、先へ先へと決断し、そこまで追いついていくといったことのくり返しが目につくのだが、それだけに、努力と忍耐もまた、たいへんだった。
「お得意先に恵まれたことが大きいですね。ずいぶん、いろんな人に助けられています」
専務の山口桂治郎は率直に感謝をあらわしている。もちろん、そのひいきに応える努力と技術の蓄積があってはじめていえる言葉なのだが…。
いま、東洋ビジネスのメーンユーザーに第一勧業銀行がある。売り上げの二五%を占める最大手である。
社長の山口忠造が若い時から大の勧業債券ファンだったという下敷はあったものの、勧銀とのつきあいは、事実上、飛び込みの営業から始まったものであった。まだ、日本勧業銀行といった時代、都内支店も日本橋支店ほか三店舗しかない都銀への揺らん期である。
当時、日本橋支店長だった矢田部章(後に開銀理事)がなにくれとなくめんどうを見てくれた。
矢田部氏の紹介で本店にルートが開ける。大ざっぱにいえば、今日のユーザーは、ほとんどここから広がっていったといっていい。他の金融機関、さらには証券会社、保険会社へとその輪が広がり、今日の三本柱である金融・証券・保険のユーザーが形成されてきた。
昭和四十年代に入ってからのコンピュータ時代の地ならしにも、勧銀の果たした役割が大きかった。同行が導入した人事考課、身上調書システムの帳票コンサルティングを全面的にまかされたのである。部長特命を受けた同行人事部の若きシステムマン奥山泰弘氏と協力して東洋ビジネスは、新しいコンピュータシステム(KDPS)の求めるフォームシステムの開発に全力を傾けた。この成果が、今日の大きな布石となり、コンピュータ時代に向けての先端的な役割を果たしたと桂治郎は認めている。
その他にも、東洋ビジネスの成長発展の上に貢献したユーザーサイドの人たちは少なくない。だが、なんといっても発展の基礎にあるものは、桂治郎の鋭い洞察力と決断力以外にないことも確かなことである。
昭和三十年代の後半、桂治郎は、早くもコンピュータ時代の到来を予知し、着々と体制整備を進めていた。ちょうど家電産業が過熱期に入っていたころのことである。
予想どおり、昭和四十年代中葉から国産コンピュータ時代が幕をあける。東洋ビジネスは、常務の三橋が開拓してきた明治製菓を突破口にしてこの流れに完全に乗り切っていく。
同時に、桂治郎は、早くも次の時代が、OCR、OMRなどのパターン認識の時代であることを見抜き、精力的にその準備体制を整えはじめた。今から五年も前のことである。
昭和四十八年には、資本金の倍の四千万円を投資してオフセットフォーム輪転機を導入し、さらに同五十年は、高速機も設置している。「需要の高度化、多様化に対処する」のが目的の投資だが、別な面から見れば、すべてOCR、OMR対策の一環であった。
曲折はあるが、桂治郎によれば、ほんとうの勝負の時は、昭和四十四年、本社ビルを新設したときと、同四十八年のオイルショックによる紙パニックの時だったということになる。
本社ビル建設は、一億円の大型投資であった。周囲は「無謀ではないか」と批判的であった。何よりも、中小企業金融公庫、商工中金から融資を受ける関係もあって東京都の経営診断を受けた結果が「無謀説」だったことが桂治郎にはショックだった。しかし、桂治郎は、こうした周囲の批判をここでも押し切る。その可否は、今日の発展がすべての答えだ。
(敬称略)
<文・道田 国雄>
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