一歩先んず 第1回

This entry is part 1 of 10 in the series 一歩先んず

「山口屋紙店」から「東洋ビジネス印刷」へ

1978年(昭和53年)、会長が専務だった頃に日本工業新聞に連載された弊社の連載記事です。
当時の新聞記事をスキャニングし、OCRソフトを使って文字に起こしています。誤字脱字の無いようにご紹介していきたいと思います。


ONE STEP AHEAD-これが、東洋ビジネス印刷株式会社(山口忠造社長、東京・江東区森下町=以下東洋ビジネス)の創立以来の社是である。
経営に限らず、他より一歩先んずることは勝利者になるための要諦である。ごくあたりまえのことだ。が、昭和二十五年という四半世紀も前に、この社是をかかげたところに東洋ビジネスの真骨頂がある。
「前垂れ、もみ手の商売だけは、どんなことがあってもやりたくなかった」
専務・山口桂治郎の述懐である。この思いが社是につながった。一歩先んじることによって、常に、売るべき何ものかを保持したいという決意がこめられていた。主体的経営活動を実現したいという男のロマンでもあった。
全国に二万七千の業者がひしめく印刷業の世界。
数指に足る大手を除いて小企業が群をなしている。印刷という近代技術を売りながら、その経営手法は、昔ながらの商店的経営感覚からほとんど出ていない。技術が飛躍的に進歩した今日においても、大部分は、その殻を破り切れないでいる。
まして、今日のように技術が進歩していなかった敗戦直後、その様は今日の比ではない。帳面を腰にぶらさげて、八百屋さんや魚屋さんよろしくご用ききにまわる。
「毎度ありがとうございます。何かご用はありませんか」
たまたま注文をもらい、腰を二度も三度も折る。極端にいえば、それが、群小印刷企業の日常であり、平均的商法であった。
かつて、東洋ビジネスも、その例にもれない存在であった。
昭和二年、現社長、山口忠造は「山口屋紙店」を興す。問屋の使う和帳、通い帳など和洋紙の印刷を業とした。
当時、本所錦糸町と呼ばれていた時代。現在の錦糸町駅の裏手一帯は、菓子の問屋街でもあった。甘く香ばしい菓子の香りに誘われるように近県各地から仕入れの人たちが集まってきて、街は、終日、ブリキの菓子鑵を背にした人たちで賑わった。
人の賑わいに比例して問屋の多忙ぶりもきわだった。そして、そこで使われる和帳などの印刷物の量も相当なものであった。忠造は、そこに目をつけたのである。
問屋街が栄えている間は「山口屋紙店」の商売も順調だった。昭和恐慌から戦時下経済へと昭和史のうねりは確実に高まりつつあったが、まだ菓子を呑み込んでしまうほどのうねりにはなっていなかった。
忠造の長男である桂治郎は、ほぼ、山口屋紙店と同じ年輪を重ねながら成長した。目の前には、せっせと問屋街をまわっては注文をとり、油にまみれて刷りものにいそしむ父親の姿があった。
戦争をはさんで、なおその光景は続いていた。
昭和十九年、空襲が激しくなりはじめると本所一帯は、戦火の防火ラインを作るための強制疎開対象地になる。山口屋紙店も、住みなれた土地をあけ渡すことになり、-家は、都心をはさんで反対側の荻窪に引っ越した。
曲折はあったが、忠造は、やはり印刷の仕事を続けていた。戦争が終わり、街にようやく復興の槌音がかすかに響きはじめると、一家は再び本所の地に帰ってきた。昭和二十二年暮のことである。
菓子問屋はほとんど姿を消していたが、かわって材木店、ガラス工場、鉄工所などが忠造の新しいお得意先になっていた。印刷と事務用品が主な扱い品目で商売のほうも順調に伸びていく。
(敬称略)
<文・道田 国雄>

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紹介 東洋ビジネス印刷

東洋ビジネス印刷

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