一歩先んず 第3回

This entry is part 3 of 10 in the series 一歩先んず

山口桂治郎(先代社長)の青春1 GHQで稼ぐ!!

専務山口桂治郎の〝英語熱″は戦後、よりいっそう昂じてくる。
戦後すぐ、英語の実地勉強にと米軍の立川基地で荷役労務者のアルバイトを始める。終戦直後の冬休みからというのだから、その行動力はたいへんなものだ。また、同時に、大井英語学院、ニコライ学園などの英語学院をはしごして歩いたという。その熱の高さは、容易に想像できよう。
桂治郎の〝英語バカ″(失礼)ぶりを物語るこんなエピソードもある。
昭和二十二年、彼は早稲田大学に入学する。(二年で新制第一政経学部二年に移行)が、第一志望は、早稲田でなかった。家業を継ぐことはともかく、企業人になろうと思っていたから東京商大(現在の一ツ橋大学)を受験した。ところが、英語は満点に近かったが、数学がまったくダメなのだ。零点で、みごとにすべってしまったのである。
「ほんとうは東京外語に行きたかったのですが、そこまではわがままできませんでね。独立進取の校風には魅力を感じていたのでまあ、早稲田に入ったんですよ」
早稲田に入ってからも〝英語熱″はいっこうにひかない。
大学に入ってすぐ、当時、終戦調達局にあった外務省通訳養成所の試験を受けている。三度目の挑戦で合格、三カ月間、外人教師や二世教師にしごかれる。その間も、東京外語学院、アテネフランセなど外国語学校を荒らして歩いた。
通訳養成所は、授業料は無料だったが、卒業後一年間は進駐軍の施設で通訳として働くことが義務づけられていた。学生の彼も例外ではない。いまの大蔵省のビルの中にあったGHQの保安関係のセクションに通いとおした。
「当時のお金で四千円ぐらいの給料をもらいましたよ。食糧品もかなり自由になりましたからずいぶん家の役に立ったはずです。もっとも、二年生の時から夜のほうに切りかえましたがね」(桂治郎)
戦後の混乱の中で、いち早く自分の道を見つけだし、着実に人生を構築していく姿は敬服に価する。私見をいわせてもらえば、この積極的な行動力、実行力は、英語学習も無縁ではないように思う。皇国の価値観の逆転的崩壊は、桂治郎少年の心にも大きなショックを与えなかったはずがない。にもかかわらず、その坐折からすぐに立ち直り、確実に少年を次に歩ませたものは何であったのか。いうまでもなく、英語学習を通じて形成されてきた柔軟な思考構造だったのであろう。敗戦というショックに押し潰されることなく、人生の夢を失わずに自己の世界をきりひらいていくしたたかさ、ロマンの〝ルーツ″をそこに求めるのは、決して冒険などではあり得ないと思うのだがどうだろう。
中学三年のとき、彼は『刻下の急務』と題した全校弁論大会で金賞を得ている。その中で彼は、日本の敗戦の原因を冷静に分析し、決して卑屈にはなるまいと呼びかけている。そして知力と体力のある限り、努力を続ければ、勝国アメリカやソ連に伍して立派に国を建て直すことが可能だと指摘していた。
桂治郎の発想の原点を、まさにここに見ることができる。英語世界を通じて形成された思想と行動がすでに定着していることは、驚くべきことでもある。
このことは、冒頭に書いた「前垂れ、もみ手の商売だけはどんなことをしてもやりたくない」という発想が、決して感情論などではないことを教えている。
いま、東洋ビジネスは、コンピュータ・フォームのトップ企業として確固たる地位を築いている。コンピュータという最先端技術の世界にあって完全に独自技術を保有しているばかりか、経営手法のユニークさにおいても独自の道をきりひらいている。
(敬称略)
<文・道田 国雄>

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