一歩先んず 第5回

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山口桂治郎の青春2 早稲田大学で企業経営を学ぶ

角帽の学生時代から、専務の山口桂治郎は東洋ビジネスの中心にすわっていた。
最初からそのつもりだったわけではない。確かに、実務派の社長・忠造のブレーンとしてロジカルな面は受け持っていた。だが、桂治郎自身は、東洋ビジネスを離れて商社マンとして自分の道を伸ばしていこうと考えていた。幼少の時からの海外への夢が、商社マンへの道を選ばせたのである。
昭和二十七年春、早稲田大学を卒業した桂治郎は三井物産系のゼネラル物産に入社し、経理部会計課に配属された。ゼネラル物産は、迷うことなく受験して合格したいくつかの商社のうちの一つであった。ズラリ一流商社を並べて合格してみせたところに、桂治郎の海外に賭けた熱い思いを見ることができよう。
それはともかく、商社マンの生活は、一カ月の短い時間で終わってしまった。周囲の状況が、彼を無理矢理に東洋ビジネスに引きずりこんでしまったのである。
桂治郎がいう。
「あのころは、企業に対する税務攻勢が激しくてね。親父ではどうしても耐えられたかったのですよ。仕方なく、私が面倒を見なければならなくなってしまったのです」
実際には、父親の苦境を傍観していられなかったのであろう。なぜなら、そのときすでに桂治郎は、企業会計に対する深い知識を持っていたからだ。自分が知らない世界の話なら周りから黙って見ていることもできる。しかし、知っている事に関しては、手を貸さずにいられないのが人情というものである。
桂治郎が会計学にかかわり合いを持つようになったのは大学二年の頃である。
そのきっかけが面白い。あるとき、貸借対照表を眺めていて、何かの拍子に「どうして貸方が右で借方が左なのか」と疑問を持った。理由はない。が、そう考えはじめると、どうしてもその疑問を解かずにはいられないのが性格でもある。大学の図書館に何日も通って近代複式簿記のルーツをベネチアの原典の英訳で調べるなどトコトン追求する。そんなわけで、彼の興味は、いっきに会計学に傾斜していった。
そんな思いでいる時に、たまたま商学部へ行って染谷恭次郎の簿記の講義を初めてきいた。この授業がまた、桂治郎を大いに刺激した。わずか二十分ばかりの講義であったが、そのエッセンスの濃い内容が彼をしびれさせたのである。
より会計学に魅せられた彼は、英語の学習に見せた粘りと執着をここでも発揮し、どんどんその学問を深めていった。いまは早稲田実業の校長に転じている青木茂男に原価計算を学ぶいっぼう早稲田会計学会に身を置きさらに商業英語にも努力を傾注した。こうして彼は、公認会計士なみの知識と学問を身につける。父親の難儀を黙って見ていられなかった心情も十分に理解できるというものであろう。
東洋ビジネスの歴史を語ろうとする場合、桂治郎における英語と会計学との関係をさけて通ることはできない。もっといえば、東洋ビジネスは、桂治郎と英語と会計学の函数の中で生まれ成長してきた企業といっても差しつかえない。
そのことは、桂治郎自身も認めている。「東洋ビジネスの出発点となったビジネス・フォームは、英語と会計学のドッキングの結果であった」という彼の述懐は聞くまでもないことだろう。
東洋ビジネスという横文字の社名、一歩先んずるという言葉の原点は、いうまでもなく彼の英語の素養にある。ビジネス・フォームは会計学的発想だが、そこに着眼する思考の流れには英語世界の感覚が微妙にからまっている。このように、桂治郎の半生の足跡を追っていくと、決まってどこかでこの二つが顔を出してくるのである。
(敬称略)
<文・道田 国雄>

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