一歩先んず 第8回

This entry is part 8 of 10 in the series 一歩先んず

昭48、オイルショックを乗り越えて

第二の勝負のときは、昭和四十八年のオイルショックである。折りから、大型の設備投資をしたばかりの時でもある。紙パニックの荒波は、ようしゃなく東洋ビジネスにおそいかかってきた。
「どこへ行っても紙がないのですから文字どおり四苦八苦しましたね。最後には、人を頼って中国貿易でもしなければとさえ思ったものでした」
こういって専務の山口桂治郎は、当時をふりかえる。
だが、ここでも桂治郎は、思い切った〝攻め″の路線を採用する。なんと、一定のグレイドを決めて、お得意先の七〇%を切り捨ててしまったのである。そして、その余力を残りの主力ユーザーにすべてそそぎ込んだ。まさに、大きな賭けであった。
このとき、大手は、紙パニックを理由に消極的営業に終始していた。その様子を冷静に見ながら、桂治郎は、いまこそ積極的に攻めこむチャンスだと見てとったのである。
「この際、量から質への大転換をはかり経営体質を変換していく。主力ユーザーの要求にはどんなことがあっても全面的に応えて行くよう全社をあげて努力せよ」
全社に向けて檄が飛ばされた。桂治郎自身も最前線に出て指揮棒を振る。この大一番が終わったとき、東洋ビジネスの〝質の経営″はみごとに開花していたことはいうまでもない。
オイルショックの去ったあと、日本の企業経営には、〝減量経営″の嵐が吹き荒れる。が、東洋ビジネスは、そのことをオイルショックの真っ只中で実現してしまったのだから大変なことだった。
嵐の去った後に、大手に負けない強い経営体質が残っていた。
例えば、今日のメーンユーザーである第一勧銀である。それまでもメーンには変わりなかったが、同行では、ご多分にもれず大手印刷が強い勢力を誇っていた。嵐の中で、大手印刷は、積極的に行動しなかった。小回りのきかない大手企業の体質のなせる業だったのだろうが、東洋ビジネスは、その間隙をぬって完全に同行の中に入り込んでいった。
「とにかく注文は全部受け入れました。大丈夫かと向こうが心配するほどでしたが、当時の調度課長豊田順氏に一緒に大手製紙会社に出向いて頂くなど、あらゆる手段、方法で紙の手当てに奔走し、なんとか乗り切ることができたのです」(桂治郎)
苦しい闘いが終わってみると、第一勧銀にあっては、大手印刷と肩を並べていたというわけである。思い切った外科的手術。それだけリスクもかさんだ。創業以来、初めての対前年比売り上げ減というツケがまわってきたが、その見返りは、十分に見合うものであったことはいうまでもない。
量から質への経営体質の転換とひとくちにいうが、言うは易しく行うは難しである。もともと土台がしっかりしていなければ、たいていの場合、かけ声だけに終わってしまう。
東洋ビジネスが、嵐の中での減量作戦に成功したのも、しっかりした足腰を持っていたからにほかならない。冒険、無謀だといわれながらおし進めてきた設備の近代化、合理化作戦、早くからのシステム志向が、強い支えになったのである。
昭和三十五年にはじまったシステム志向戦略は、同四十六年、東洋ソフトウエアサービスの設立に結実し、同四十九年には、系列会社トーヨーフォームへと発展していく。トーヨーフォーム(本社・埼玉県戸田市)は、現在では本社工場に劣らない近代設備をそなえて衛星工場作戦の埼玉市場の拠点として独自の発展を続けている。
衛星ミニ企業を強化してグループ立国を目指すというのが現在の東洋ビジネスの一つの未来戦術である。低成長時代にふさわしい展開戦略である。東洋ビジネスは、立派に試練を乗り越えたといえよう。
(敬称略)
<文・道田 国雄>

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